GW 2011(宮城:東日本大震災後の親戚見舞いへ・・・)


3月11日、東日本の太平洋側を襲った大地震と、
それに伴う大津波で被災した親戚を訪ねて来ました。
地震では、自分自身も被災した形ではありますが、
両親の実家のある宮城は、大変な被害に見舞われ、
特に海に近い所の親戚のほとんどが津波にも遭遇していて、
しばらくの間、避難所生活をしていた様でしたが、
2ヶ月近く経って、自宅やケアハウス等にいるとの事で、
GWを利用して、会いに行って来ました。

訪ねると言っても、宿の手配は自前でしなくてはなりません。
まさか、親戚の家等に泊まる訳にも行きませんので・・・。
幸い、内陸の温泉地は比較的被害が少ないとの事で、
4月には営業を再開している旅館等も結構あり、
そういった観光地に行く事も支援のひとつとも言われていたので、
鳴子温泉の某ホテルに予約を入れて行きました。
(今回の宿はいまひとつ・・・)
1日目:5月3日
もっと早く、GWの初めから行ければ良かったのですけど、
両親も一緒と言う事もあって、混雑を避けるつもり・・・だったのですが、
結果的には、GW後半初日という形になってしまい、
かなりの渋滞にはまる事になりました。
震災直後に起きた燃料不足の心配もなくなり、
例の、自動支払いのみ補填されると言う、
訳のわからん料金制度の適用もあって、
車での移動が、割と多かった様に思います。
全線運転再開したとは言え、新幹線の本数はまだ少ないですし・・・。

東北道自体は、路面の状態が悪い場所が多々あり、
うねっていたり、ヒビが入っていたり、段差があったりと、
走行に支障はないものの、地震の影響が結構ありました。
高速からは、屋根にブルーシートを被せている家も沢山見えました。

あまりの渋滞の酷さに、大和ICで高速を降りてR4へ。
SAも大混雑していて、お昼も食べずにいたので、
ドライブインを見つけて、午後2時くらいに遅い昼食。
その後、R457へ出て、R47/R108で鳴子へ到着しました。
初日は宮城入りで終了です。



宿の窓越しに見た景色。
後ろ側の山の稜線に雪が残っているのは、
鳴子(花渕山)スキー場か?

2日目:5月4日
宿のある鳴子から遠いところからと言う事で、
まずは、石巻から女川に向かう事にしました。
石巻市と女川町には、母方の親戚が多くいます。
残念ながら、女川の従姉一人が、津波で亡くなりました。
一緒に住んでいた伯母は、当日ディサービスでケアハウスにいて、
津波の難を逃れたそうですが、家にいた従姉は、
近所の人が声を掛けてくれたそうですが、逃げ遅れた様です。
きっと、伯母の着替えとか運び出そうしてたんでしょう。
そういう優しい人でしたので・・・。

R47/R108で古川から石巻へ。
道々、災害派遣の幕を張った自衛隊車両や、
物資輸送のトラック等とも沢山すれ違いました。
石巻に至る間にも、倒壊した家や屋根にブルーシートを被せた家、
電柱が傾いているところなど、地震の激しさを物語る光景が、
あちらこちらに見受けられましたが、
石巻バイパスに入ると、それに加えて、
津波による冠水の痕が見られる様になりました。
道路沿いの店舗は、大型店等は営業を再開していましたが、
依然として手付かずのところもあって、
後片付けもまだこれからと言った感じもします。
旧北上川の石巻大橋を渡る時、川下側の中洲に石ノ森漫画館が見えました。
ここの中で助かった方が多数いたと聞きました。
よくぞ残ってくれたと言う感じがします。
が、この後牧山トンネルを抜けた先からは、様相が一変しました。
R398(女川街道)との交差点を左折してからは、
道の両脇は、倒壊したり1階部分が大きく損傷している家ばかりで、
中には車が入り込んだままになっている家もあったり、
TVの映像では見ていましたが、なんとも言えない光景でした。
2ヶ月経ちましたが、道路は通ったものの、
復旧作業はまだまだと言う感じで、これをどう片付けて、
復旧・復興に繋げて行くのか、先は長いと感じました。
学校などには、まだ避難されている方たちもいると思われ、
校庭に自衛隊の大きなテントが張られていたり、
校舎の窓には、「頑張ろう!石巻」の幕が張られていたりと、
少しでも早く、身の周りの環境がよくなるようにと願うばかりです。
(写真はちょっとはばかられましたので撮ってません)
そんな中でも、自衛隊や警察・消防関係、
そして沢山のボランティアの人たちの姿を目にしました。
親戚に会うためだけに行った自分が言うのもなんですが、
ホントに頭が下がる思いがします。
渡波駅前を過ぎ、営業再開していた万石浦のイオンSC辺りまで来ると、
被害の度合いがだいぶ小さく感じられました。
とは言え、浸水しなかったわけではない様です。

万石浦の先、浦宿駅近くの施設に伯母はいました。
震災後、一時期は親類の家にいたそうですが、
この後しばらくは、施設の方で過ごすそうで、
比較的元気そうな感じですが、元々足の調子が良くないのと、
この震災で娘を亡くしたショックが、この先どう出るかが気掛かりです。

初めは行ってみる気は無かったのですが、
思い切って女川の町中まで行く事にしました。
(ちなみに万石浦へは女川の方から津波が越えて行ったそうですが)
浦宿から少し登ったところまでは形を残していた家々が、
町に向かって下り始めた途端、周りの景色は無残なものに変わりました。
道路の周りはかなり片付いてはいるものの、
鉄骨の建物はまだそのまま残っていて、中には上に車が乗ったまま・・・。
高台にある町立病院の1階部分まで津波が来たと言うことで、
実際の波高は、30mはあったのではと想像されます。
奥が狭くなる地形なので仕方ないと言えばそれまでですが・・・。
病院の裏手から、女川駅の方へ降りてみると、そこに駅の姿は無く、
町役場と生涯教育センターの残骸がありました。
木造家屋のほとんどは姿を消し、ガレキは片付けられていて、
何もない景色が広がっているだけでした。
勿論、伯母と従姉が住んでいた家も、土台だけ残して何もありませんでした。
周りは山に囲まれていて、そこに登っていれば・・・と思うと、
なんとも残念でならない気がしましたが、
木に引っかかって残っているゴミの高さを見ると、
港からかなり奥の場所でも、相当高い波だった事が分かります。
更に奥には、かなり大きな船が残されたままになっていました。
この日の女川は、晴天で風もなく、なぜかとても穏やかな日でした。
お昼時だったからか、作業している人の姿も少なくて、
何の音も聞こえないくらい静かでした。
(写真を少し撮りましたので載せておきます)



ガレキを片付ける重機。
高いところの建物は形を残していますが、
下は・・・。


鉄骨の柱と壁の一部は残ったものの・・・。


町役場だと思います。
建物は残っていますが、屋上まで浸かった様です。


土台だけになった伯母の家から、駅方向を見ています。
沢山家が建っていたはずなのですが・・・。
左に写っている木が変色しているのは、
波をかぶったからでしょうか?
あの辺りには、JRの車両が流されて来ていました。
真ん中からやや左上の赤く見えるのも、
JRの車両だと思われます。
しかし、ホントに何も無くなってしまったなぁ。


伯母の家からさらに奥の方を見てみました。
道が狭かったので行った事はなかったのですが、
家が建ち並んでいたはずですけど・・・。
なぜが舟がこんなところに取り残されていました。
横の山の木々がなくなってるところまで、
波の高さがあったと言うことでしょうか・・・。
写真の右手上の方が、避難所にもなっている、
第2小学校と総合運動公園になるそうです。


子供の頃から良く知っている、旅館の「かのまた屋」です。
皆さん避難されて無事と伺いました。


女川駅前ですが、駅舎がありません・・・。
右に写っている白屋根の建物は、トイレ?だったかも。


だいぶ片付いたとは言え、
まだこういった光景があちこちに・・・。


岸壁まで行かずに海が見えます。
その間にあったものがなくなったと言う事・・・。


3階建ての建物の上に車が乗ったまま。


がれきの撤去は進みつつあるものの、
構造物として残ったものは、まだ手付かずな感じもします。

お昼時だったからなのか、GWだからなのか、
作業をする人の姿はだいぶ少ない感じでした。
作業者の数が足りてないと言う話しも、
聞こえてきたりするのですが・・・。



名残惜しかったのですが、次に東松島市で被災した伯母の家に向いました。
来た道を戻り、R398から県道240に入って、
石巻漁港に近い方を通ってみましたが、
信号機などが倒れたままの状態になっており、
交差点では、警察官が出て交通整理をしていました。
道路右手の住宅地は勿論、左手の倉庫群も相当な被災状況でした。
日和大橋を渡って石巻港へ差し掛かると、
海岸近くの大きな工場にも、相当の被害がある様でした。
貨物用の引込み線も、線路下が流され、線路が宙に浮いていました。



石巻港の潮見埠頭はがれきの山に・・・。



東松島市は、大曲地区の被害が大きい様でした。
伯母の家は、まさにその辺りにあるので、
どんな様子なのか気になっていたのですが、
行ってはみたものの留守だった様で、誰もいませんでした。
外観からは大きな損傷も見られませんでしたので、
翌日また訪ねる事にして、この日は宿に引き上げました。
3日目:5月5日
事前に連絡して、東松島市の伯母の家へ。
こんな時ですので、鯉のぼりを上げているところはありませんでした。
伯母の家は、1階は水が入ったものの、
津波での大きな破壊はなかったそうです。
地震の揺れで、家財道具が倒れたりはしたそうですが・・・。
どうやら、波が来た側に学校があったおかげで、
流されて来たものなどに、当たられずに済んだ様です。
勿論、畳は濡れてしまったので、外されていました。
とりあえず、ライフラインも復旧して、
家での生活は可能になっている様で、一安心です。
避難中は、同様に被災した航空自衛隊松島基地で、
基地復旧後、お風呂に入れてもらう事が出来たそうです。
あと、車が2台流されたとの事ですが、
家族全員無事なのが、なによりといった感じでしょうか。
海水に浸かった桜が、元気に咲いていたのが印象的でした。



東松島市郊外の田んぼにはまだ水が残っていました。
塩分が残って、田んぼとして使えるのかどうか・・・。


伯母の家を後に、石巻市の内陸部と
隣の登米市の親戚宅に寄ってから宿に帰りました。
こちらの方は、ライフラインが止まったものの、
大きな被害はなかったそうで、すでに普通に生活出来ている様で、
ケアハウスにいる伯母も元気そうでした。
早いところでは、すでに田植えの準備が進んでいました。



宿への帰り道、大崎市川渡温泉の、
江合川河川敷に咲いていた、菜の花と桜の写真。
菜の花の黄色と土手の緑と桜のピンクの色合いが、
何事もなかったかの様にキレイでした。

4日目:5月6日
宿から近い、大崎市の父方の親戚を訪ねました。
内陸部でもあり、瓦屋根が破損している家等は見受けられるものの、
大きな被害はなさそうに感じられました。
親戚の家も、ライフラインが止まった以外は、
多少物が落ちた程度だった様です。
大崎市は、2008年の地震の時にも大きな揺れを観測していて、
隣の栗原市が、今回も最大震度を記録している事もあって、
結構大変な事になっているかと思っていたので、
少しは安心出来たかなと言う感じがします。



大崎市のR47沿いにある、「あ・ら・伊達な道の駅」です。
いつも混雑していて、結構な集客があるそうです。
震災の影響はわかりませんでしたが、
今回も、毎日朝早くから沢山の車が入っていました。


はやくもツバメの姿を見かけました。
当日は天気が悪く、気温も低かったので、
少し寒そうにしている感じがしました。

5日目:5月7日
帰宅する日ですが、その前に大崎市内でもう1軒、
親戚の家に寄る事にしました。
だいぶ山の中に入るので、どういう状況なのか心配していましたが、
人と建物には大きな被害はないとの事でした。
ただ、敷地の一部にひび割れが出来たそうで、
修復した跡が見受けられました。
元々山の中なので、電気が止まると真っ暗で、
余震も多くて、大変だったと言っていました。




親戚の家に咲いていた春を感じさせる花々。
木を切って小さくなっても花をつけた八重桜。
黄色が鮮やかなチューリップとスイセン(?)。
タンポポに小さい蝶が・・・。
鉢からこぼれた種が咲いたスミレ。



この時期、被災地に行く事がいいのかどうか、少し考えたりもしましたが、
2ヶ月経って、交通事情も多少は安定した感じもありましたので、
自宅の修復もGW前に終わったので、顔だけでも見れればと思い行って来ました。
見慣れた町の変わってしまった姿は、かなり衝撃的ではありましたが、
会うことが出来た親戚は、皆それぞれに前向きで、
ひとまず安心することが出来ました。
と言っても、元々被害が小さかった側の思う事ですから、
現地の人の心中とは違っているかもしれませんが・・・。
未だに行方不明の方も沢山いるわけですし。

次に訪ねるとしたらお盆休みになりますでしょうか。
それまでには、更なる復旧・復興が進んでいる事を願っています。
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